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杉原通信「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」

第4回大谷九右衛門と村川市兵衛

幕府から竹島(鬱陵島)渡海の許可をもらい、毎年交代で70年余り隠岐経由で島に渡ったのが米子の町人大谷(おおや)家と村川家です。

大谷家は但馬国(たじまのくに・現在の兵庫県北部)の大屋谷(おおやだに)を出自とする家で、元和3(1617)年大屋(後に「大谷(おおや)」と改名)甚吉と名乗る者が竹島へ漂流し島の豊富な物資に注目し、それらを日本へ持ち帰る事業を開始し島に渡っている時、病気で早世しました。そしてその事業は甚吉の甥の大谷勝宗(かつむね)が受け継ぎました。彼は「九右衛門」を名乗りましたので、その後大谷家の当主は代々九右衛門を襲名しました。九右衛門勝宗は竹島渡海の基礎を確立し、寛文2(1662)年97才で亡くなっています。つぎは九右衛門勝實(かつざね)です。大谷家と村川家は幕府から渡海許可をもらったお礼に、折々江戸に出て将軍様や幕閣の大名に土産の品を届けました。公方(くぼう)様と老中様には竹島の干しあわび500個入り1折、側用人、若年寄、寺社奉行様には300個入り1折といった記録もあります。将軍に直接会って土産を手渡し、竹島に関する質問等を受けることを御目見得(おめみえ)といいますが、勝實は万治2(1659)年と寛文11(1671)年に4代将軍徳川家綱の御目見得にあづかっています。勝實は延宝7(1679)年死去し、九右衛門勝信(かつのぶ)が後を継ぎました。勝信時代では延宝9年5月幕府の巡検使が山陰地方に来た時、米子の灘町にあった自宅を宿舎に提供し、その際竹島に関する質問を回答した記録が残っており、研究者に注目されています。勝信は元禄5(1692)年に亡くなり、わずか7才の九右衛門勝房(かつふさ)が当主となりました。元禄5年といえば、村川家船で渡海した人達が70年余一度も遭遇したこともない朝鮮人の集団と出会い、この島は我々の島だかる二度と来るなと説教して帰った年で、翌年大谷家の船が竹島に出掛けると前年以上の朝鮮人が日本側が作っていた小屋や小船を勝手に利用していたので、ついに安龍福(あんりゅうふく・アンヨンボク)、朴於屯(ぼくおとん・パクオトン)と名乗る2人の男を米子に連行して帰りました。鬱陵島を4月18日に出発し、2日かかって隠岐の福浦(現在の島根県隠岐の島町)へ帰り、隠岐諸島の島前(どうぜん)経由で出雲の長浜に立ち寄り、4月26日に米子に寄港したことがわかっています。米子ではしばらく大谷家に逗留しましたが、大谷家は二人をお客様として丁重に扱いました。6月4日、彼等は鳥取藩城下の鳥取へ陸路移送され、6月7日には護衛の藩士2人や医師、料理人等と共に長崎に向かい、6月30日に長崎に到着しています。ここから対馬経由で帰国していますが、対馬藩で安龍福が語ったことは『竹島紀事』(たけしまきじ)に、帰国後のものは『粛宗実録』(しゅくそうじつろく)に記録されています。幕府はその後3年にわたって鬱陵島すなわち当時の「竹島」の扱いについて対馬藩に朝鮮国と交渉させますが、対馬藩のかたくなな態度の影響もあって交渉は進展しませんでした。そこで幕府は元禄9(1696)年1月、日本人の竹島渡海を禁止することを決定しました。このことを知らされた大谷家では「安龍福、朴於屯を我々が連行したこと等で朝鮮国王が立腹しておられるので、幕府は竹島が日本領であることを証文をとって朝鮮国王に認めさせた上で、この島をしばらく朝鮮側にお預けになった」と『大谷家由緒實記』(おおやけゆいしょじっき)に記録しています。竹島渡海の仕事を失った九右衛門勝房は、出雲へ移住を決意し藩に申し出ました。おそらく出雲の大原郡加茂村(現在の島根県雲南市加茂町)の佐藤家に嫁いでいた姉を頼ろうとしたと考えられます。『加茂町誌』で調べますと、町人で松江藩から佐藤の苗字を名乗ることを許された者が数人いますが、どの佐藤家かは目下判明しません。これに対し鳥取藩は大谷家という由緒ある家が他藩へ移ることは許さないとし、米子で魚と鳥を扱う問屋の仕事を与えました。大谷家はこの問屋業に専念し、1800年代の当主九右衛門勝意(かつおき)の時には毎年鳥取藩主に献金するほどの隆盛を誇っています。
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さて、今度は村川家のことをお話ししましょう。祖先は摂津(大阪)の久松甲斐守に仕えた武士山田二郎左衛門正斎(まさなり)でしたが、事あって大阪で切腹、その子正員(まさかず)は米子の村川六郎左衛門の娘であった母に従い米子に移住し、母方の姓村川を名乗ることになりました。
正員と、続く正賢(まささと)は甚兵衛を名乗りましたが、次の正純(まさずみ)から以降「市兵衛」を襲名するようになりました。この市兵衛正純が大谷甚吉と親交があり、甚吉が竹島へ漂着した後、同島への渡海許可を幕府に願い出てそれを実現させた人物です。彼は大谷甚吉亡き後も渡海事業に情熱を燃やし、幕府との絆も密にし、寛永3(1626)年、寛永15(1638)年、正保2(1645)年と3回も江戸城での御目見得の栄に浴しています。この頃村川家は松島(現在の竹島)のアシカ猟を盛んにやっていたことが鳥取の商人石井宗悦の手紙や、村川家所蔵と伝えられる「松嶋絵図」(現在原図は見つからず、過去に写真撮影されたものが米子市立歴史館にあります)でわかります。また寛永14(1637)年、竹島から帰途に向かう村川市兵衛の船が暴風に遭い、隠岐と反対の朝鮮に流され対馬経由で帰国したことがありますが、対馬藩の記録にアシカの油314樽、アシカの身60俵、アシカの皮53枚を積んでいたとあり、その他の鮑(あわび)等の量とは比較にならぬアシカ中心の積み荷であったことがわかります。
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明暦2(1656)年から当主は市兵衛正清(まさきよ)になり、元禄2(1689)年からは市兵衛正勝(まさかつ)が家を継ぎました。この正勝の時代の元禄5年、竹島渡海が始まって70余年間一度も出会ったことのなかった朝鮮人達と村川船の乗組員は遭遇しました。正勝は船に乗っていたわけでなく、船の責任者は黒兵衛という船頭でした。黒兵衛は翌年大谷船が安龍福等を連行した時も船の責任者でした。正勝は元禄9年渡海禁止を拝受し仕事を失いますが、鳥取藩は塩を扱う問屋の仕事を与えて米子での生活を支えてやりました。その後の村川家では当主となる男児がいなくて養子を迎えることがありましたが、松江の末次(すえつぐ)の豪商新屋(あたらしや)の中屋(なかや)の一族から市兵衛になった者がいます。また明治期、村川家の「ぬい」という女性が大谷家に嫁いでおり、大谷、村川両家は長らく円満な関係を維持したと思われます。

(主な参考文献)
「大谷氏舊記」
「大谷家古文書」
「村川家舊記」
「郷土資料村川家附竹島渡海」
「鳥取藩政資料」
「因府年表」
「鳥取県史」
「新修鳥取市史」

WEB竹島問題研究所より転載

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